ポルシェスパイダー550の呪い・・・?
皆様こんにちは!!
タイトルを見てピン!ときた方もいらっしゃるかと思います。
有名なお話です。
この車を愛車にしていた人物、それは・・・
ジェームズ・ディーンとは??
【ジェームズ・ディーン(1931年2月8日 – 1955年9月30日)】
今もなお、伝説の俳優として人気を誇るジェームズ・ディーン。
本名はJames Byron Dean。幼い頃に母を亡くし、叔母夫婦の元に預けられた。
その後、再婚した父に引き取られて父の勧めでカリフォルニア大学の法学部に進むが演技への執着から演劇科へ移行。
エキストラとして活動を始めるが、芽が出ずニューヨークへ移りブロードウェイの舞台のチャンスを得た。(この頃アクターズ・スタジオにも入学。同期にはポール・ニューマンやマーロン・ブランドがいたという)。
そこで映画『背徳者』に出演中、監督エリア・カザンの目に止まり「エデンの東」へ大抜擢された。
微妙に揺れるティーン・エイジの青年を魅力的に演じ一挙にスター・ダムにのしあがる。
その後、爆発的な人気と共に「理由なき反抗」、「ジャイアンツ」と主演するが「ジャイアンツ」撮影終了間際に事故死した。主演映画はたった3作。
わずか1年のスターダムだったにも関わらず、現在もジェームズ・ディーンが好んで履いていたジーンズが復刻されるなど圧倒的な人気を誇る伝説のスターである。
引用元:ウィキペディア
1955年9月30日~彼を襲った事故とは・・・??
引用元:http://enigma-calender.blogspot.jp/2014/07/James-dean-550.html
ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、
愛車であるシルバーのポルシェ・550/1500RSでカリフォルニア州の州道41号線を走っていた。
後方にはカメラマンと友人の俳優ビル・ヒックマンがステーション・ワゴンと空のトレーラーを曵きながら付いていた。
午後5時59分にコレーム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた学生の運転する車と衝突した。
Y字型の合流地点であり、ゆるい下り坂を、Y字の右上方から下に向かって、直進で抜ける地点。ジェームズ側が優先道路だった。
下からの直進が一時停止の、変わった形の合流地点で、危険な交差点。550スパイダーの、USAではありえない低さと、折からの西日により、正面からから来たフォードの乗用クーペが、坂の上の550スパイダーを確
認できず、左折しようとして(ジェームズは右車線)、一時停止を無視。
中央分離帯に出てしまい、550は左側から側面衝突したという。ラルフは車外に投げ出されて骨折、学生も軽傷で済んだが、
ジェームズは複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であったという。また、事故後、ジェームズは救急車で病院に運ばれたが、
最初に乗った救急車が事故に巻き込まれ、途中で別の救急車に乗り換えるアクシデントがあったという。病院への搬送途中でジミーの死亡が確認されたが、彼は事故直後既に即死状態であったという。
”ポルシェスパイダー550の呪いとは・・・??”
引用元:http://enigma-calender.blogspot.jp/2014/07/James-dean-550.html
事故車のポルシェ・スパイダー550は多くの部品は壊れていなかったため、ジョージ・バリスが残骸を買い取った。
未だ使用可能な部品を回収することにしたのだ。しかし、彼のガレージに持って行き、運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させた。
翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い取り、共に自分たちのレースカーに搭載した。2人が挑んだレースでは、スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせた。
もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡した。
その後、エンジンとミッションは外され、そちらの所在は確認されている。
なんと、そのミッションは他のポルシェに積まれて、日本に来ていたという。
一方、ジョージ・バリスが所有していたボディは、カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示されることになり、各地をツアーすることになった。
1959年、スパイダーのボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちてしまった。
サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負った。
数週間後、スパイダーはサリナスに送られることになったが、その途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡した。
オークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させた。
オレゴンでは運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させた。
1959年暮れ、ニューオリンズに辿り着いた時は、スパイダーのボディは11ピースまで分解されていて原型がなくなっていた。それでもバリスは十分な時間をかけて修理しようと思ったという。
1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたが、
この輸送中、スパイダーの残骸(ボディ)は、忽然と消えてしまったという。
バリスは私立探偵まで雇って行方を探したが、ボディ部分は未だに消息が掴めていない。
”まとめ”
斯くして24歳という若さで亡くなってしまった伝説的俳優ジェームズ・ディーンだが、
彼が映画『ジャイアンツ』(彼の死後、1956年に公開)の撮影の合間をぬって、公共広告用の映像を収録していた。
これが彼の死後いわくつきの広告映像になった。
これはワーナーブラザース提供の番組中に放送予定だったものだ。
内容はハイウェイでスピードを出すことの危険性を唱えたもので、ディーンは
「スピードを出すのは一般道ではなく、レース場で」
と訴えている。
「君の安全運転が救う命は、ひょっとして俺の命かもしれないぜ」
皮肉にもこのインタビューの撮影後すぐに亡くなったため、この映像が放送されることはなかったという。
彼の言う通り、我々の安全運転は知らない誰かの命を救います。
心して安全運転を致しましょう。
では、今日はこれにて!!
また来週お会い致しましょう!!